4,父 龍太郎から聞いた最後の話

平成15年2003、8月22日(金)岡山駅を12:07発のぞみに乗り、新大阪、梅田を経由、天王寺からオーシャンアローで、勝浦駅には16:24に着いた。勝浦へは長い間、帰っていなかった。この盆頃から、父が相当弱ってきたと聞いて一度早く、帰らなければならないとは思っていた。駅に着くと、兄嫁のなつ子さんが車で迎えにきてくれていた。湯川の家に着き、父の枕元で、“幹二です。帰ってきました”と挨拶した。父は想像以上に痩せていた。全身もう骨だけで、尿の管をつなぎ、向こう向きに寝ていた。“おお、帰ってきたか”声にはあまり力がなかった。そして、とりとめもない話をした。足がとくに竹のように細くなっていた、完全に麻痺しているのは一目瞭然であった。肺癌で片肺はもう腫瘍で充満しているのは聞いていた。涙が出そうになるのをこらえながら、父の昔話を色々と聞いた。

父は国際人だった

父は明治45年生まれであるのでもう91歳になる。朝鮮の京城(現在のソウル市)で生まれた。父は子供の頃、須川家の長男で、岸家の養子になった。岸のおじいさんは勝浦出身で、東京高等商船学校を出てから、大陸に渡り、朝鮮の開発に携わった。紀州の木材をどんどん、朝鮮に輸出して、財をなし、その他、多くの事業を起こした。小学校3年生頃は大連にも住んでいた。大連は海辺の辺鄙な漁村だったというが、日本人が多く住んでいた。子供の頃は中国語と韓国語が流暢に話せ、今でも話そうとすれば話せるという。しかも、岸のおじいさんはこれからは英語の時代だといって、父を大連の埠頭近くに住む、元外国航路の船長さんの所へ英語を習いに行かせた。大酒のみの船長で、朝から酒をのんでいたが、流暢な英語を話したという。父は英語を習いに行くといっては、近くの釣り道具屋に釣り道具を預けておいて、埠頭でよく釣りをしたという。魚はたくさん釣れ、帰りには釣り道具屋さんにすべてあげた。釣り道具屋の夫婦にはよく可愛がられた。友達は中国人が多かった。その頃、日本人は中国人を虫けらのごとく扱っていた。だから、街中では父に対する中国人の眼差しはきびしかった。大連の冬は厳しい寒さである。家々の前には暖房のためにうず高く石炭が積んである。大変寒い日だった。日本人の経営する雑貨屋の前を通りかかった時、中国人のおじいさんと孫らしき、丁度、父と同じ年頃の男の子が、その店の前の石炭をわずかばかり盗もうとして、店の主人に見つかった。棒で激しくたたかれていた。そしてその上にその主人は水をぶっかけようとした。父は思わず、駆け寄り“そんなことをしたら、風邪をひくじゃないか”と必死で主人の腕につかまり、その親子をかばった。自分でどうして、そのような行動に出たのか分からなかったという。いつの間にか、たくさんの中国人が回りを取り囲んでいた。大きな拍手が沸き起こった。主人は仕方なく、おじいさんが持っていた袋に石炭を入れた。父は恥ずかしくなって、その場を走って家に逃げ帰った。その翌日からである。いつもは父をこの小僧めという目で睨み付けていた、中国人の労働者たちもが、親切に声をかけてくる。そして、たまたま、中国語を習っていた、東大出の中国人の弁護士さんが、父に毎日来るようにと言った。君はこれから、日本と中国との架け橋になってくれと、一生懸命、日本と中国の過去の歴史について、個人講義を授けた。父は心優しき子供で、まさに国際人だったのだなと思った。

私は、帰郷した時はいつも2階で寝るのだが、その夜から、父が見えるところで、布団を敷いて寝た。
あくる日は看護師さんとヘルパーさんが来た。父は風呂に入れてもらったり、敷布を変えたり、本当に2人にはよくしてもらっていた。訪問看護のありがたさがよくわかった。
 さて、帰る日が来た。いざ、もう帰るというとき、父は体を起こしてくれという。冷や冷やしながら、弟と一緒に骨だらけの体を起こした。
彼はこのように行った。
“へたな延命をして生きようとは思っていない。しかし、もう、生きているうちには会えないかもしれない。寝たまま、君を送ることは出来ん。人生は負けたらいかん。がんばってくれ”と。
実は翌日は病院統合の交渉ごとがあった。少しその話もしていた。弱気になっていたからである。それでは帰ります。また来ますからと挨拶した。骸骨みたいな顔をしっかりと、こちらに向けてうなずいた。手を振って、座っている姿がかすんで見えた。でもしっかりと座っていた。父が亡くなったのはそれから2か月後の秋深まる頃でした。

岸 龍太郎とあい遺影


(この項以上)

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