幼少時代
私の父、龍太郎は明治天皇崩御の年、明治45年(大正元年)1911、須川 久彦(ひさひこ)家の長男として朝鮮で生まれた。
幼い頃、材木に挟まれて足を複雑骨折したため、少し足が不自由だったが、歩行にはそれほど支障はなかった。早くから岸家に預けられ、岸の母‘みね’にはとても可愛がられた。その頃の養育係に”イ・サバンという朝鮮半島人がいて、彼の部落によく遊びに行った。
そのためか、日本語よりも朝鮮語の方がうまく使えた。小学校入学当初はまわりで喋っている日本語の方がよくわからなかったという。また、その頃、小学校がよく放火に会い、安全のため、何度か学校を変わらされ、遠方の学校に通うこともあり苦労したらしい。正式に岸家の養子に入ったのは14歳というから、多感な年齢の頃である。岸に養子に入ったのは父が性格的に材木屋には向いていないということらしいが、詳しいことはわからない。兄弟の多い賑やかな家庭環境から一人になり、寂しかったと思うが、須川の兄弟姉妹はよく遊びに来ていた。岸の祖母“みね”は父に里心がついて須川に帰ってはいけないといつも甘いものをたくさん用意していた。父はそのせいで、早くからむし歯に悩まされて、歯科医院にはよく通った。岸、須川両家の母親は姉妹同士である(“みね”は生駒家の長女、“とせ”は次女)。
歯科医になる。
龍太郎は龍山中学校を経て平城医学専門学校に入学したが、親に黙って、京城歯科医学専門学校に移って歯科医になった。医科から歯科に移るのはその頃でも、めずらしいかもしれない。大変、手先の器用な人で、自分は歯科に向いていると考えて歯科に移ったとのことで、自分が歯の治療で苦労したことも影響したことだろう。後年、自分の歯の治療、抜歯や義歯の作成すべて、自分でしたというから、その経験は実際の患者の診療に大いに役立ったのではないか。歯科医専では射撃部に属していた。陸軍の援助があり、部活資金は潤沢だった。実は父は狙撃兵としての訓練を受けていた。その腕前はなかなかのものだったらしい。朝鮮府の大会で、準優勝したこともあり、歯科医専の同級生が同窓会誌にその腕前を称賛する記事を載せている。
満鉄の歯科診療所を経て、京城市内で開業していた。開業資金は実父の須川久彦が出してくれた。地元の人達に大変慕われ、朝鮮に残って、歯科を続けてくれと言われて、本当に、その気になっていたようだ。しかし、戦後の情勢は悪くなる一方で、親戚の中では一番遅く、日本に帰国した。内地に帰って紀伊勝浦で開業するまでの経緯は”岸家の引き揚げ“ですでに述べた。
勝浦で開業にこぎつけて以後は患者さんも増えて、忙しい毎日だった。戦後間もなくはまだ、国民皆保険制度は発足していなかったが、むし歯になる人は多かった。患者さんも結構遠くから朝早く起きてきていた。診療後は技工と夜遅くまで忙しく、いったい、いつ寝ているのだろうと思ったものである。生来の器用さとあいまって様々に歯科用機材に工夫を加え、また、抜歯をはじめ外科的処置から義歯まで幅広くこなしていた。晩年、もう動けなくなるまで患者さんに請われて診療していた。
妻、あいと結婚
母あいも家事の他、受付から技工の手伝いまでして早朝から起きて、働いていた。母は大正6年、新宮奥の三津ノ村日足で、医師玉置貞一、つぎえの長女として生まれた。つぎえは父龍太郎の実母の“とせ”とは姉妹でいとこ同士の結婚ということになる。貞一は京都府立医科大学の一期生で日足に診療所をかまえていた。日足は新宮から、熊野川奥深く上ったところで、昔は川船で往き来していたという。私ども兄弟が子供の頃、夏休みに日足に行くのは楽しみだった。しかし、その頃の道中は狭い崖道で、バスがすれ違う時にはすれすれ、その下は目もくらむような絶壁である。対面するトラックがバックして崖際を後輪ぎりぎりまではみ出しているのを見て、乗客一同、思わずあぶないと声をあげたものであった。実際、この路線のバスはよく落ちた。山側からは木の枝がせり出して、開けたバスの窓からはみ出してきて、ある年、私はたまたま、ハゼの木の枝にばさっと顔を打たれ、かぶれて腫れあがり往生したことがある。また、途中、谷をわたす吊り橋があったが、この橋が落ちる時があり、その時は不通となった。
何故こんな山奥に住んでいるのだろうと不思議に思ったことである。
母が子供の頃、日足の山中で一群の墓石がある場所に紛れ込んだことがある。それらの墓石はとても立派なものだったが、どの墓石も“のっぺらぼう”で、戒名など彫ってなく、誰の墓かもわからないようにしてあった。その後、その場所にもう一度行こうとしたが、どうしてもたどり着けなかったという。熊野は平家の落人伝説が色々と残っているが、母曰く、あの墓は平家の落人の墓ではなかったかと言っていた。母は名古屋の椙山(すぎやま)高等女学校で学んでいた。後輩にベルリンオリンピックで日本人女性初の金メダリストの前畑秀子がいた。新宮でなく、名古屋の女学校を選んだのは貞一が新宮に講演に訪れたある講師の先生に娘の教育について相談し、どうせ寄宿生活をするなら都会をと勧められ、名古屋の椙山高等女学校(現椙山女学園大学)に行くことになったという。久しぶりに帰省した時、祖母つぎえは母が慣れない所で苦労して、さぞ、痩せて帰ってくるだろうと案じながら、宇久井の港まで迎えに行った所、大変太って現れた母を見てびっくりしたという。楽しい学生生活だったらしく、その頃オリンピック選手だった先輩から、玉置さんは走るのが早いとほめられたことを自慢していた。気が早くて、活発そしてひたむきな性格は学生時代につちかわれたものか。それにひきかえ、私と兄の達也はスポーツは全くだめで、運動会ではいつもがっかりだったらしい。父は京城時代に診療所へ行くのに、家の前の結構長い階段をいつも自転車で突っ走って降りて母の胆を冷やしていたというから、父も運動神経は結構良かったのだろう。母は京城時代仕込みのキムチを毎年,漬けていたが、韓国人も太鼓判をおす味だった。母は59歳でバイクに衝突された傷がもとで亡くなった。初孫も生まれ、好きな踊りに目覚めて家族のだれもが、母はこれから少しはゆっくりできると思っていた矢先だった。最終的には弟の玉置俊彦が産婦人科部長をしていた京都日赤病院に世話になった。新宮市民病院に入院していた時、病室の名札を見て、もしかして、玉置あいさんではないかと年配の女性が部屋に入ってきた。“昔、日足で玉置医院にとてもお世話になった。貧乏で医療費が払えず、お礼はダイコンなどの野菜でした。それでも、とても親切に診てくれた”と涙を流していた。祖父貞一は“赤ひげ”顔負けの医者だったらしい。長男の叔父俊彦も祖父と同じ京都府立医大を出て、産婦人科医となり、難しい症例をこなした名医であった。昔、美空ひばりの兄弟の関係者のお産を受け持った時、その筋と思しき若い連中が院内をうろうろするので、一喝して追い出したという。
趣味の海釣り
父の子供の時からの趣味の釣りは勝浦の“後の浜”での投網から小さな伝馬船そして、ポンポン船、そしてジーゼル船と船も大きくなっていった。通常の漁師であれば、遠洋、近海あるいは対象とする魚により、専門領域が決まっている。父は素人の強みか、色々な漁法で様々な魚を対象とした。しかも本来の器用さもあいまって、釣り道具も独自の改良・工夫を加えた。勝浦近辺には独特の釣りの漁法があり、その漁法は千葉県の同名の勝浦でも同じ漁法が伝わっている。昔、紀州勝浦の真鯛釣りの漁師が黒潮に乗って、千葉まで行き来し、定住した所を勝浦とした証拠とされている。しかし、いまやこの漁法を知るのは、勝浦でも父より趣味の釣りを受け継いだ3男の三雄だけだという。私ども兄弟はよく釣りに連れていってもらったが、兄と私はよく船酔いをした。また、港を出ると暗礁がたくさんあり、“この島の先端とあの山のくびれた所が重なったところに暗礁がある”などと教えられた。また、魚が釣れる場所も同様に覚えないといけない。三雄は会得したが、兄と私はちっとも覚えられなかったので漁師失格である。
主にカツオやシイラを狙うケンケン漁(ルアーを使ったひき縄漁、トローリング)では釣れる時はとても、忙しく結構、重労働であった。色々な魚釣りを経験させてもらったが、なかでも、夜釣りでとる深海魚の“よろり”という魚は強烈だった。釣りあげると針をはずす前にまず、ビール瓶でドカンと頭を一撃しておとなしくさせなければいけない。歯が鋭くて危ないからである。この“よろり”と言う魚にまつわる言い伝えがある。補陀落山寺の前の那智湾のむこうに広がる熊野灘、その海の彼方に極楽浄土、補陀落があるという補陀落信仰があった。台風などの嵐の日に、出られないように打ち付けた船で補陀落浄土へ信者を送り出す補陀落渡海が平安時代から、つい、明治の頃まで行われていたという。全国から信者が集まり,渡海したが、補陀落山寺の代々の住職はある一定の年齢になると必ずこの船に乗らなければならなかった。時には、嵐のあとに浄土に行き損ねて、岩にしがみついている信者を見つけると、親切にも皆でひっぱがして、海に返して浄土に行けるようにしたという。補陀落浄土に行けなかった人々がこの“よろり”になったというのである。そのため、地元の人達は決してこの魚を食することはなかった。私どもはこの魚をよく頂いたが、その恐ろしい顔つきに似合わず、油がのって結構美味であった。ちなみに補陀落山寺の前の那智湾の浜は平維盛が熊野の縁を頼んで、落ちのび、極楽浄土めざして、入水したところでもある。また、私達兄弟がよく泳ぎに行っていた浜でもある。
夜釣りに行った父が朝、診療時間がきても、なかなか、帰ってこない時は母と港に行って、やきもきしながら、帰りを待った。患者さんも一緒に“先生はまだかの”と言いながら首を伸ばしながら待ってくれた。やがて、港の入り口にポンポンと父の船が現れた時はほっとしたものである。父は勝浦から、東京で開業するつもりだったが、あまりにも魚がよく採れるので勝浦の地に落ち着いたと冗談めかして言っていた。
子供の教育
私と兄は那智中学を卒業後、千葉県の京成本線の鬼越駅近くの叔父の所に預けられ早稲田高校に進学した。しかも、玉置有三叔父は市川市の市役所に勤務していたが、新婚間もない頃だった。母の弟なので、姉としての権限が強かったのかもしれない。難しい高校生2人が新婚家庭ですから、本当に苦労を掛けたと思う。叔父の遺言は、“自分の葬式には必ず、岸の兄弟を呼ぶように”とのことだった。何故、親が私ども兄弟を東京にとその時はあまり、深く考えなかったのですが、それなりに理由はあるようだ。終戦時、龍山中学の学生だった弘資叔父がまとめた記録によれば、内地に帰国して1年ほどは何も勉強しなくてもよかったと書いあった。すなわちそれほど、京城での教育が進んでいたということだ。そこで、紀州の田舎で教育を受けさせるのが、不安だったのかもしれない。確かに、京城帝国大学は大阪帝国大学や名古屋帝国大学よりも早く設立されていて、日本は朝鮮や台湾など外地での教育に力をいれていたことは確かのようだ。また、米国やブラジルの日系人は子供の教育に熱心で、とくに、ブラジルなんかは大学における教官の日系人の占める割合は相当高いし、医師、弁護士の日系米国人の比率も高かった。両親は引揚げ者の親の心理として、子供をより教育環境がいいところで、勉強させたかったのだろう。しかしながら、私どもは東京にはなじめず、兄とともに大阪歯科大学に入学した。不思議な縁で、父が京城歯科医学専門学校で学んだ矢尾太郎薬理学教授には私ども兄弟が大阪歯科大学で学び、そしてご子息の矢尾和彦先生(前大阪歯科大学歯科衛生士専門学校長)は同級生であった。彼とは以来、今日まで親友として付き合いは長い。
私達6人兄弟姉妹で、私は岡山に住んでいるが、兄、達也、弟三雄とも歯科医で、那智勝浦町で開業している。長女美江(よしえ)は竜門睦正(歯科開業医)、次女泰江(やすえ)は井上正義(大阪歯科大学教授)、三女紀公子(きみこ)は辻本芳孝(歯科開業医。歯科医師会地区会長、瑞宝双光章叙勲)といずれも歯科医に嫁いでいる。やはり、身近に歯科医として働いている父の姿を見て育ったことが大きく影響しているのだろう。父は一時、陶芸家になりたかったというが、達之介に、それでは飯は食えぬと反対されたという。紀公子が高校時代に美術の先生がぜひ、美大を受けさせてやってほしいと頼みにきたほど、絵が得意だったが、父が反対したので、共立女子大学に進学した。しかし、彼女は結婚後、子供が成長してから、絵を描き始め、毎年、独立展で入選している。美江も小さい時からビーズ細工などを上手に作り、後年、大工仕事もこなすほど器用なのも父のDNAであろう。
岸家引き上げの後日談
父の引き揚げ後に後日談がある。祖父達之介には実は父の他、もう一人、養女がいた。達之介とともに、大陸へ渡り、主に満州で事業を展開して成功した同郷の今津某に愛人がいた。その愛人に生まれた子を本妻に内緒で達之介に依頼したのである。父とは年は離れていたが、とても可愛い子であったという。父も実の妹のように可愛がった。今津家には跡取りの一人息子がいた。親が反対する朝鮮半島人の女性に結婚をせまられていた。しかも、妊娠したというのである。ある日、彼が岸家を訪ねてきたが、何も言わずに帰ったので、なんとなく気がかりだったという。その数日後に彼は自殺した。あの時相談してくれればよかったのにと父は言っていた。その女性が妊娠したというのは真っ赤なうそで、腰回りに座布団を巻いての大芝居であった。跡取りをなくした今津家はやむなく、その養女の子を引き取った。今津氏は戦前の早いうちから、財産を内地(大阪)に移していた。終戦後、農地改革などで、土地などある程度なくしたと思われるが、今津氏亡き後、唯一の後継者となったその女の子は、その財産を元手に、水商売に打って出て大成功したという。私ども兄弟が丁度、歯科大を卒業して間もない頃の話である。その女の子の消息を知った父は懐かしさのあまり、ある日、大阪にその子を訪ねていった。ところが、現れた女性は昔のあの可愛い女の子の面影はどこやら、しかもその筋と思しき男たちを従えていて、いかにも怖かった。ほうほうの体で縮みあがって帰ってきたという。会いに行くのではなかったとつくづく後悔していた。
(この項以上)