3、生駒兄弟カナダに渡る。

祖母、須川 とせ の父は生駒 豊三である。豊三は、湯川「喜代門」の現在より4代前の弟だ。現在の父が倫造、祖父が千里、曽祖父の米造の弟である。明治中期の人だった。
豊三の娘の一人が とせ で、その兄、中村姓を名乗る、中村 元太郎(もとたろう)と弟 生駒 験(わたる)は20世紀初頭であろう、カナダに行った。
当時彼らは20代前半であっただろう。体格の良い若者であったそうだ。
和歌山県は海外移住の多い地域で、ハワイ、カナダ、カルフォルニア、
オーストラリアなどに戦前31000人、戦後2000人が移住した。
出稼ぎ目的で、地元の家族に送金していたようだ。
カナダ・ブリティシュコロンビア(バンクーバーあたりか)には1880年代後半に、日高郡三尾村の工 儀兵衛、1905年に須佐美の南 弥右衛門らが行き、彼らは漁業に従事した。鮭漁であった。
(和歌山県移民資料より)

大正初期の勝浦港

彼らが北米に出稼ぎに行った動機を推察するに幾つかの理由があろう。
1,収入がよい。
1、 新しい環境で働きたい
この二つが主たるものでないか。
同じところで同じ顔を見ながら同じ仕事をするより、新天地を求めたいという動機が圧倒的に大きかったのではないか。
生駒兄弟も収入、地元に送金する、はもとより大きな動機だっただろうが、新天地を求めた。

地元の状況は、明治中期、地元産業の水産業、林業、鉱山などに変化があり、勝浦、太地の大きな水難事故で不況になっていたのではないか。

那智勝浦町史によれば、明治、大正期に和歌山県は移民県であり、明治39年1907年ころより米国大陸西海岸には多くの移民が渡った。
大正3年1916、東牟呂郡では3550人で、そのうち宇久井299,勝浦86,色川54,など491人いた。
勝浦の外国在留者は同年、97人。中村 繁市と言うひとが南カルフォルニアサンペドロ港で漁民であった。
生駒兄弟が故郷に戻ったのは大正時代初期であったのではないか?
彼らが渡ったカナダ、バンクーバーでは漁業、林業、鉱山業そして鮭マス加工業が盛んで日本人が多く従事した。
特に漁業に関しては北米大陸西海岸の沿岸漁業は19世紀末から20世紀初頭、日本人が開拓したと言われている。
町史によれば、北米の漁業と言えば圧倒的に和歌山県人であったそうだ。
生駒兄弟に関しては漁業だったか、林業だったか、不明だ。
孫の櫻井 資郎さんの話では、長男 元太郎は材木の事故で片足を失ったと言うので林業であっただろうが、途中で仕事を変えたことはありえる。

私の両親は多分弟の験からもらったのであろう大型の黒いフットロッカー(薄木でできた箱型トランク)を、戦後10年間くらい引っ越しに使用していた記憶がある。

大正時代、勝浦-新宮間に民間鉄道が開通した。

この兄弟のことは少し前の人たちだが、詳しいことはよく分からない。
どこに何年くらいいて、何をして、どういう生活だったのか?
どこから渡航したのか?北米で働いて何を感じたか?
などなど。
今、私たち、一族にはとても大勢の人たちが外国で働き、私と私の兄弟たち、元宣(もとのり)のように日本の法人で働いた者もいるが、濟(わたる)伯父の孫のように個人でIT関連業務で渡航し、仕事を見つけ、更に彼の2人の息子たちは一流大学大学院で建築学、生物学を学んでいる。
久(ひさし)伯父の孫のように最大手医療機関の有名外科医とか、半端でない優秀な能力を示していることは、記録に残しておくべきだろう。
この項以上

カテゴリー: 記憶にある人々 パーマリンク