櫻井 資郎さんに聞いた関係
令和4年6月30日
―以下敬称略―
はじめに
生駒 豊三は明治初期の人で湯川 喜代門の次男であった。
兄は生駒 米三と言い、喜代門の当主であった。
妻は中村 かつと言い、5人の子がいた。いずれも明治後期の生まれで大正から昭和を生きたひとたちだ。
中村家、妻の実家に長男 元太郎が養子に行った。
中村家はどこから来たか、何を生業にしていたか?
は、不明だ。豊三の娘、とせ が私の母方祖母だ。
一方、中口家は、私の母方祖父、久彦の系列だ。
これらの人々の交わり誰が誰なのか、なかなか端的に説明するまた理解することが困難な家族関係であった。
今回、中村家(生駒家の系列)の萩子(はぎこ)、朝鮮半島で九州大分中津出身、櫻井 幸太郎(こうたろう)と結婚した、の息子、櫻井 資郎(しろう)にその関係を説明してもらった。
萩子は私の母の従妹にあたる。
( )内は私の記憶

櫻井 資郎(さくらい しろう)は1935年生まれ、87歳。
昭和33年1958より本宮町三里小学校に赴任、15年間を暮らし、新宮市三輪崎在。
(弘資叔父からのメールに、彼の長男が新宮市の丹鶴小学校で会っており、娘は優しい先生だった。廊下ですれ違うと必ず声を掛けてくれたとの、内容だった。)
父親 櫻井 幸太郎(こうたろう)は大分県中津出身、京城で中村 萩子(はぎこ)明治41年1908生-昭和31年1956、48歳没、と昭和6年1931、結婚し、5人の子がいた。こどもたちは、
幸子(平成6年1994没)、資郎、達郎、靖郎(昭和20年1945没)
義郎である。
父親、幸太郎の出身地大分県中津市に一家の墓がある。
朝鮮半島での櫻井家の住まいは京城市龍山区で岸家に徒歩で行ける距離にあり、岸家と親しく付き合っていた。私の名、「資郎」は岸 達之介が命名した。
櫻井家は祖父が日露戦争期に朝鮮半島に渡り、建築資材の店を経営していた。扱う商品は材木、満州瓦などであった。
幸太郎はその店の2代目であった。
幸太郎は昭和19年に召集され、釜山にいたが終戦、一旦京城に戻った。昭和20年終戦直後9月に靖郎が死亡した。
しかし、軍に在籍していた者は早く引き揚げさせるということだった。幸太郎は、10月下旬、祖父祖母(父方)を残して、萩子とこどもたちと引き揚げた。貨車で釜山に出て、税関倉庫で3日間ほど待機、興安丸に乗船し仙崎に着いた。
祖父母は朝鮮に残りたいと考えていたようだった。
(彼らものちに本土に戻るが)
私、資郎は、新宮市と本宮町で小学校教員をしていたが、新宮市王子小学校を定年退職後は新宮市三輪崎に居を構えていた。現在は孫たちの世話で東京にきている。孫たちが育ったら、新宮に戻る予定である。
妻は本宮萩の出身。新宮の家と家財はそのままにある。
京城の記憶は、人間の顔はおぼろげだが、久彦家の玄関の様子、
畑のトマトを食べた、など沢山ある。
新設町の須川 久彦家には母によく連れて行ってもらいました。
龍山区からはかなり距離があったと思います。

電車で東大門に行き、その先の坂道を上がって行った。
広い芝生の庭に、シェパードを飼っていた。

父が経営する京城の建材店には天満から荒尾 栄一さんと言う番頭が来ていた。(弘資叔父に模型飛行機制作を教授したと。)
彼は兵役の関係か一時期いた。紀州からの従業員は彼だけであった。
中村家
中村 元太郎(もとたろう)は、とせ の兄、生駒家の長男だったが、中村家に養子に行って、中村姓であった。(明治期、兵役は家の長男には免除があった。長男ではあったが、彼が養子に行った背景は不明だが、稼業が家族経営するものでない、例えば会社とか官庁などでは免除はなかった。私(資郎)が勝浦に来た時には母方祖父元太郎は丸通の勝浦所長だった。
中村 元太郎と弟、生駒 験(わたる)は明治後期、1900年代、北米に渡航した。(カナダで森林作業に従事したと言われている)
在米中に、元太郎は事故で片足を失い義足であった。
二人は何年かして帰国した。弟、験の次男、和重が勝浦で玩具店を営んだ。
(この「おもちゃや」は(須川 薫雄)は湯川にいた幼少のころ行くのが楽しみだった。多分当時、お絵かきをしていた画材はそこから来たのだっただろう。勝浦駅の港より、現在は居酒屋などが並ぶ便利な場所と記憶している。)
験(わたる)の長男に太(ふとし)がいた。
私、資郎が中学の修学旅行で京都を訪れた際に太、弘資の二人が夜の京都の町に連れ出してくれた。太は野球も上手でスポーツ万能であったと記憶している。
この兄弟、元太郎、験は英語が堪能で、終戦直後、米軍が兵器処分に来た際、(日本軍兵器を海中に投棄する作業)、米兵たちと流暢に会話していた。
中村家は長男 守一(もりかず)大正後期1920年頃生、薬剤師は、勝浦で薬局を開業していたが第二次大戦中、ニューギニアで戦死。
(勝浦町史によれば中村 守一は昭和19年1月16日戦死)
中村家が薬剤師を生んでいた家系は正雄、都雅子(つがこ)の子供たちに継がれていた。

次男正(ただし)1924年頃生には、萩子(はぎこ),守一、都雅子(つがこ)と3人の子がいた。彼らは とせ の甥と姪にあたる。
都雅子(とせ の姪)は戦後、中口 正男(久彦の甥)と結婚した。彼女は勝浦で衣料店を開いていた。この系列が中村 元宣である。
正雄と都雅子の孫たちは30代であろうが、3人いるが、慶應義塾大医学部教授、総務省エリート官僚、医師である。
宗派は臨済宗である。勝浦海翁禅寺
中口家
中口家は、須川 久彦の姉 たみ が中口 猪之助と結婚した家系である。色川であったか、猪之助の家業は農業、林業であっただろう。
長男 中口 憲二、次男 正、三男 中村 正男といた。
正男は浪商(浪華商業)卒。朝鮮の須川洋行勤務。久彦の甥。
終戦時、兵役に就くも京城に戻り、8月末にとせ、喜美子、薫雄、敬久と興安丸で引き揚げた。除隊した地は京城より南であったが、久彦家に戻っていた。
正雄の兄、正は妙法鉱山に勤務していたようだが、社名は不明。
正の長男、中口 憲二は新宮高校建築の教諭だった・1926年頃生か。
長男 富士彦、三男 和己 である。
この項以上