生駒家は明治初期、湯川の「喜代門」に発して、私の母方祖母「とせ」の父の出身家だ。
喜代門は江戸時代から続いた旅館であっただろう。
湯川は紀州でも古い温泉で、井戸を掘らず、湯が出てきた。
地理的には那智大社に詣でる人々、勝浦や太地の漁業従事者、そして天然の良港勝浦で関連する様々な産業、廻船に従事する人々、山林業、など多くの人々が利用していたようだ。
湯川の「ゆかし潟」には明治期、北前船も入って来たと言われている。
先の当主、生駒 倫造(みちぞう)は、母の従兄で、那智勝浦町町長を長く務めたが故人である。
須川 久彦の家族は昭和20年9月に京城から幾つかのグループに分かれ各々1週間くらいかけて久彦・とせ が所有していた家と田畑があった湯川に引き揚げて、各々、一時期、生活した。
その家は明治期の建物で「喜代門」の玄関の前にあった。今は空き地だ。
弘資(ひろすけ)叔父は湯川の駅まで喜代門が大八車を出してそれで帰ったと記憶しているが、駅から大人の脚で15分くらいの距離だ。
すでに喜代門は旅館としては営業していないが、温泉の「聖地」であり、近所の民宿に宿泊する人々が利用している。
湯川の湯は豊富で、どこの風呂も右から湯がとうとうと流れて出て、左に流れ落ちるような贅沢さだ。喜代門は千里(大正から昭和)、倫造(戦後)が当主であった。私は、3-5歳のころ、喜代門の湯に、湯川の家にいたときは、毎昼晩入った。外から裸足で走りこみ、湯舟で泳いだりして遊んだ。窓から外に出て、無茶苦茶した。一切怒られたことはなかった。寛大だった。
喜代門の前は広場になっていて、現在は駐車場で、その前がゆかし潟の一番奥になる。小さな川が流れ込んでおり、その向かいに「湯川楼」と言う別館も経営していた。今はカフェだ。
川には戦前からの石垣と立派な橋がある。
戦前、終戦直後の当主は千里で彼の妻は豊三の末娘だった。
千里は角ばった顔でそれなり威厳のある人だったと記憶している。
息子の倫造は僕らが湯川に行ったころはまだ中国戦線で、復員していなかった。倫造は大正後期の生まれだ。
千里の弟、生駒 俊介(しゅんすけ)は戦前、京城にいた。俊介は京城市太平通り(徳寿宮の近く)で製材業をしていた。当時、朝鮮半島は衛生状態が悪く、その間に息子を病気で亡くしたそうだ。
後に湯川で旅館「楓」を経営した。私は昭和40年ころ、とせ とひろみ叔母、長女と訪れたが、通りから入った、静かなしゃれた建物で料理も旨かった記憶がある。広大な敷地であった。
昭和19年8月、濟(わたる)伯父中国戦線からの帰省、記念集合写真の左の二人は俊介ではないかと?
俊介の2人の孫は、大手教育出版社社長と、医師である。
千里には倫造の他、娘がふたりいて、一人の公子は浦上の医師、切士 忠に嫁いでいた。
倫造の妻、美栄は湯川で一人暮らしをしていた。
歯科医 岸 三雄によると、倫造の息子、大喜は三雄の患者で、健在だ。大喜は介護施設の理事をしていたが今は引退し仕事には関わっていない。彼の母(倫造の妻)は太地の捕鯨、金融などを行った大事業家の家系と言うことだ。
現在、喜代門は那智勝浦の一の滝の所有だそうだ。
子供のころ車も走っていないから、このあたりで遊びまわったが、周りの人たちはみな何かしらの親戚だったようだ。
生駒 豊三とそのこどもたち
系譜を見るととせ の父親 豊三は明治の喜代門、生駒 米三の弟で、明治前半の人だ。喜代門の次男、豊三が明治初期に何を家業にしていたかは明らかでない。
妻は中村家から嫁に来た「かつ」であった。
6人の子供がおり、2人の息子はアメリカに出稼ぎに行った。
(長男は中村家に養子にいき中村姓であった)
4人の娘はそれぞれ嫁いだ。次女が「とせ」で須川 久彦に嫁ぎ、朝鮮半島に渡った。姉すみが勝浦出身の岸 達之介に嫁ぎ、先に行っていて、久彦が達之介の事業を手伝ったからだ。
すみは肥満のため家からあまり出なかったと言われていた。
今なら適当な肥満でニュースキャスターでもこのくらいの人はいるが。戦前、京城で亡くなった。
三女つぎえは日足の医師 玉置 定一に嫁いだ。
(岸 幹二、岸家の話にある)
末娘 みなえ は喜代門に嫁いだ。
4人の娘がそれぞれ社会的に確立していた家と人たちに嫁いだのだから豊三はある程度以上の家であったことは確かだ。
長男は中村 元太郎、次男 生駒 験(わたる)、二人とも体格の良い人であったそうだ。この二人が北米に出稼ぎに行った。
長男を親族の養子とするのは明治期に兵役を逃れるためともいわれている。農家や家業により長男は兵役免除となった。
勝浦は天然の良港で、漁業の他、運送、倉庫、造船と修理など全部を行う、廻船業が江戸期より栄えていたそうだ。それに付随する商業などの産業もあったはずだ。少し山に入れは林業や開発された鉱山もあった。
だが、明治中期に勝浦と太地でいずれも船団ごと遭難する大きな海難事故があり、地域経済は疲弊していたらしい。
生駒 豊三の生業と妻 中村 かつ の実家に関する情報はないが商業であった可能性はある。
中口家の三男、正男(大正末生まれ)は中村家に養子に行った。
「生駒」と言う姓は大和が起源だ。湯川の喜代門の親族であるやなぎやの「柳生」の姓も大和だ。偶然とは思えないが。
中村の姓は勝浦の船主に見られる。
久伯父の長女(私の従妹)は「生駒」と言う姓の医師と結婚した。
この生駒は静岡の人だ。
生駒 太(ふとし)の記憶
生駒 太は生駒 験(わたる)の長男で昭和5年1930の生まれだ。弘資叔父の従兄にあたる。私も湯川にいた幼少のころ、彼がよく遊びに来たので、覚えている。私の絵を具体的にほめてくれたりした。
櫻井 資郎さんは、中学の修学旅行で京都に行った際、弘資と同志社大学に通っていた太と、2人に京都の町を案内してもらったそうだ。野球をはじめスポーツ万能の人と言っていた。
弘資叔父の記憶は以下のとおりだ。
「戦後、15歳ころに新宮中学で初めて会った。私が編入したとき、隣の組で一番、小柄なのが彼でした。
ちゃんと顔を合わせたのは、私が同志社大学2年生になったとき、母から手紙がきて、生駒 太が同志社大学を受験するので、案内するようと書かれていたからです。
後に聞くと、太は新宮中学(新制高校)を卒業すると就職するつもりであった。しかし就職先が決まらず、一年間ぶらぶらしていたそうです。ある時、須川 とせ(叔母になる)が来て、父親に とせ が同志社大学を受験するようにと強く勧めたそうです。
受験の前日、彼が京都駅に出てくるとの連絡があり、私(弘資)は、京都駅に迎えに行ったが、彼の顔が判明せずうろうろしていたら、太から声を掛けられてびっくりしました。
小柄だった太が3-4年間で見違えるほど成長しておりました。
受験の成績がよほど良かったのでしょう。英語と数学は飛び級で、一年先輩の私と机を並べる始末でした。
学生時代の生活は私の「戦後学生時代」に書いてあるので省きます。
彼は卒業後、新宮の第三相互銀行(現三十三銀行)に入行し、偉くなり各地の支店長を転任して、4年間近く新宮支店長を務めておりました。新宮支店長時代は私にゴルフ、麻雀とよくつきあってくれて無二の親友でした。
松阪本店の重役で定年になり、松阪に家を構え、将棋に夢中だったそうですが、2-3年前に亡くなりました。」
生駒家、中村家、玉置家、中口家のことは現在、那智勝浦町の歯科医岸 三雄(かずお)が調査している。近くいろいろなことが判明するであろう。
この項以上