大前 卓也
- 厳しい親父であったか、優しい親父であったか、勉強についてどんなことを言っていたのか?
私が生まれたのは1937年(昭和12年)7月31日で、生まれた場所は、旧下里町高芝であった。大きな中庭を囲むように母屋と二階建ての大きな家であった。
もの心がついた頃には、父をはじめ、町の有力者が夜な夜などこかの家に集まって色々と話し合う仲間がいた。お医者さんや歯医者さん、製材所やお店の経営者などがおり、私はそれらの方々がまるで親戚や我が家のような積もりで、いずれのお家にも平気で入っていって、その家に上がり込んで、お兄さんお姉さんに相手をしてもらって悦に入っていましたが、親父には何もいわれず、調子に乗って毎日出向いていって、今思うと、さぞかし“お邪魔虫”だったのだろうと思うが、誰にも叱られたり、いやがられたりした記憶がなかった。
小学校入学前に下里の太田川と江川に挟まれた中州で製材所を営んでいた工場の側に家が出来たのでそこに移った。そこでは、いたずらでミシンを壊して、水のたまった風呂桶に放り込まれたこと、小学校3年ごろ1年生の妹と夏休みの宿題をしなかったので軒を支える柱に両手を縛り付けられ、夏なので、蚊に刺されて痒いので妹とワンワン泣いて母親にほどいてもらったこともある。また、習字の練習の時、後ろから手をそえて教えてもらうのだが痛いゲンコツを何度も入れられるなど、厳しくて怖かった。だけど、入学時には、東京へ行った時に買っておいた、慶應義塾幼稚舎の服を着て「親父」と小学校入学式に行ったし、蓄音機で洋楽を聞かせたり、百人一首をやったり、近所のお姉さんなどを呼んで遊んでくれたりした。朝鮮への約2年間の出兵から帰ってきて、祖父が亡くなり、色川へ一家で移住(小学校4年生時)してからは、ご存知の通り、軟式テニスや、小中学生時代には野球一筋であったが、勉強には厳しくはなくなっていた。 そう言う意味では、本当に自由にさせてもらったし、野球もキャッチボールの相手やテニスではダブルスで組んで郡の大会などに出場したりして、一緒に遊んでくれたように思う。
- サッカーについて、親父は?
高校入学して親元から離れ下里に下宿して汽車通することになった。そして、サッカー部に入り、毎日放課後サッカー練習して帰るわけだが、朝は下里発6:50、帰りは夜8時頃に帰る毎日であった。結構厳しかった。「親父」は私のいた3年間は、時々色川から出てきて、練習を見てその後、全員にサッカーの講義をするだけで、私には特に何も具体的にこうすれば、ああすればといったことは何一つ教えなかった。そして、帰りには、必ずといっていいほど“やよい軒”でテキかカツかチキンライスを食べさせてくれた。
大学生になって、帰省した際には、自分は、テクニックとフィジカルに苦しんでいたので、「親父」の洋書による“戦術的”な話しには、余り感心を持てず、反発していたように思う。ここにも具体的なアドバイスや指導をされなかったように思う。大学2年時に、現上皇と美智子さんとの結婚一ヶ月後、お出ましをいただいて、国立競技場での“第10回早慶サッカーナイター定期戦”に母親と一緒に観に来てくれて、翌日には日光を観光したが、サッカーについては何も話はなかったが、喜んで帰って貰えたかなと思う。後は、慶應義塾大学体育会ソッカー部のコーチをしている時、那須での合宿に来てもらって、大学生(後輩)に講義をしたことは、「親父」も私も東北道を二人で帰ってきたが、お互い、無言の喜びと満足感があったと思う。また私の“慶應義塾高校ソッカー部監督”時にコーチであった“井田勝通コーチ”(現静岡学園サッカー部総監督)の発案で夏休みに“新宮高校サッカー部”との練習試合をすることになり、2泊3日の新宮遠征をした。1泊は私と井田コーチは、選手を新宮に残して、色川の自宅へ行って「親父」の文献(サッカーの洋書)を見ることや夜分遅くまで「親父」からサッカー談義を聞き、特に井田コーチには、練習時の“ドリル”というワードを知ったことや、ブラジルへのコーチの武者修行や“静岡学園サッカー部監督”(全国高校サッカー選手権3度優勝)という指導者への道を一歩踏み出すきっかけになったのではと思って自負しているところです。
- 弟たちにはどんなことを言っていたのか?
私が高校時代の3年間は、木村直さんが部長兼監督をしていたので、私や部員にも余り遠慮して積極的には口出しをなかったように思うが、私の卒業した後には、県で優勝して、鹿児島?の西日本大会への出場をなし、弟(3人)たちの時代は、「親父」は相当入れ込んでいて,全国で3位に入る位いだから、相当熱心に教え込んでいたのは事実で、洋書を翻訳し、カリキュラムにしてのことで、その時点で弟達にも何をどのように言ったのか検討もつきませんが、昔からの言い草として”頭は、猫にやるものではない、自分が使うもんじゃ!“とよく云っていました。
またこの時期には、20人近いサッカー部員を、色川の夜は涼しくて、よく眠れて、疲れがとれるということで、自宅近くの廃校になった”籠小学校“で寝起き、朝昼晩の三度の食事は自宅で賄っていて、母親や妹と近所のご婦人方に手伝ってももらい、「夏合宿」を行ない、てんてこ舞いの忙しさで、母親は、血圧200近くに上がり、顔を真っ赤にして頑張っていたと聞きました。
- 子供達の将来をどう見守っていたのか?
6人の子供には、「大学までは行かせるのでその先は自分でやれ!」というようなことを二~三度言われたことがあった。慶應高校への編入試験の時は、東京へ同行してくれたし、6人の子供全員大学を卒業させてくれた。大学生の時に、アメリカ留学を試みたが反対はされなかった。自由奔放にさせてもらったように思います。
- その他、多趣味で器用な人であった
物心がついたころの下里の家には“玉突き”のキュウ(cue)や硬式テニスのラケットもあり、アイススケートもバックでも滑れたと云っていました。これは大学時代東京で会得したものだったのでしょう。芝生の庭には、ダリヤやバラを咲かせ、学校へ持って行ったりしました。色川では鶏(プリマス)や七面鳥、ウサギ(アンゴラ兎)羊などを飼育し、餌やりなどの手伝いをサボって兎などを数多く死なせてこっぴどく叱られました。アンゴラウサギや羊の毛と交換した布地で大学入学時に背広を作ってもらったのが本当に嬉しかった。また、子供達の簡単な衣服もミシンで縫ってもらったこともあった。趣味としては、首振り3年ころ8年と言われているが“尺八”も相当なものであった。製材をやっていた関係でも、朝鮮に出兵中も大工仕事をやっていたと聞きました。終戦になって帰国時には通訳もやらされたと云っていました。言葉は悪いが、本当に器用貧乏であったのかなとも思います。
以上思い出すままに「親父」のことを羅列しました。
2027年に慶應義塾体育会ソッカー部100周年でお披露目する。