

昭和初期 私の父、豊にそっくりで驚いた。卓也も父と4男、圭に似ていると、豊を叔父のように思えて、静岡県庁、神奈川県庁、そして横浜三沢の家、になんとなく訪ねたと。
須川 豊の言葉
章夫(ゆきお)叔父(父の弟)が昭和50年頃、1970年代に系図作りに熱心になっていた時、私の父、豊(ゆたか)はその作業にあまり関心がないようだった。豊は「古い、古い時代、清和源氏に発する」などとの説にはノーコメントであった。
しかし後に「大前」(おおまえ)家と「下向」家(しもむかい)の二つの家は近い親戚であるから忘れるな。と言った記憶がある。
(両方とも山岳の地形に発したような苗字であったが)
章夫叔父の系図の新しい時代、つまり明治時代を見ると、
28代須川長右衛門 菊次郎(きくじろう)の長男 竹吉(たけきち)の妻、「とめ」、私の祖母は、大前家、萬六(まんろく)の娘であり、菊次郎の娘の「いくの」は大前 萬六の息子、才蔵の妻であった。またもう一人の娘、「ふじの」は下向家に嫁いでいた。

つまり兄と妹が交互に結婚するという関係で、家同士としてはとても強い繋がりが出来ていた。お互いの住居は10kmくらい離れて同じ山林業だから、競争し合うという関係より協力し合う関係であったのだろう。また当時は家の格と言うのが結婚の重要要素であった。
大前 才蔵は山林だけでなく鉱山など幅広く行う実業家で、色川村の村長をしていた。同時期、須川 竹吉は小口村村長だった。
卓也さんは「本家のおばあさん、いくの(須川家より嫁に行った)は、14歳くらいの時にこうもり傘を買ってやると云われそれに惹かれて
嫁に来た」と言っていたそうだ。良くかわいがってくれたと。
大前家はサッカー一家


大正期の代、昭和期の代ともに大前家はとても人数が多く省略するが、大前 才蔵の弟、美喜三(みきぞう)大正期、には靖(じょう)、昭和期がいた。彼は私の父、豊の従兄にあたる。その息子の卓也(たくや)、昭和12年1937生はサッカー選手だ。父の靖に続き、慶應義塾大学ソッカー部出身だ。弟、和也(かずや)も同じであったが、亡くなった。
次男欣也(きんや)は東京農大卒で和歌山県庁に勤務していた。
四男四郎は法政大学卒で新宮高校の教員をしておりサッカー部の監督だった。まさに「サッカー一家」の感がある
那智勝浦町史によれば、
大前 靖(じょう)は明治40年1907、色川篭生。昭和53年1978、71歳没。
慶應義塾大学サッカー部選手として活躍、卒業後は家業(林業)を手伝い、新宮高校サッカー部監督を昭和51年1976まで務め、後輩の指導を行った。那智勝浦町教育委員、町議会議員、国保運営審議会委員長などの公職につき、町の体育振興協会長、体育指導委員、町内スポーツ振興員を務めた。色川中学校、篭小学校発展に尽くした功績は
大きい。昭和47年1972、体育の日、功績により文部大臣賞、蹴球協会功労賞、県教育委員会功労賞など多くの栄誉を受けた。とある。
私の父はあまりスポーツが得意でなかったので、従兄の大前 靖の
この生涯は身内とは思えない。
大前家の系譜
大前家の系譜は判明している限り、(章夫叔父の系図より)
大前 久米右衛門(寛政元年1789没)
栄左エ門(寛政11年1789没)
林之右衛門(文政8年1825没)
萬蔵(明治8年1875没)
萬六(明治35年1902没)
才蔵(昭和5年1930没) 明治30年色川村長
陽三 昭和20年1945色川村長
と続いた古い家系の家だ。
長右衛門家も新しい系譜は享保時代、18世紀全般から始まっている。熊野の古い家は恐らく長右衛門家に限らず、忠兵衛家、大前家、
阪口家、下向家にはもっと古い家系があったのであろうが、宝永4年1707、の宝永大地震で記録が失われてしまつた可能性がある。
須川 竹吉の弟、金五郎の息子、謙一の妻は大前家の出身だ。
その3人の息子たち、長男 真澄は小口の生まれで事情に詳しい。
三男は文京区の歯科医だ。
須川 真澄の母は美喜三の娘であり、真澄と卓也は従兄同士だ。
大前家は須川 長右衛門家と関係の深い家族であるが、現在
お互いに行き来はない。
最近、真澄の紹介で大前 卓也に連絡がつき、会うことができ
大前家の状況を聴いた次第だ。
大前家では
大前 喜志郎 昭和19年1944、2月22日戦死
大前 睦 昭和19年1944、7月18日戦死(靖の弟、平安高校時代
剣道日本一になった)
大前 靖(じょう)が暮らし、卓也が生まれた下里は湯川、太地の少し先だが、山から川が流れて来て堆積したような地に港がある。
文化的に独特のものがあったようで、司馬 遼太郎が書いた文が
にあった。
松本 芳夫先生は慶應義塾文学部の教授で靖と年齢的には近い。
この本に下里の昔の生活、民話、思い出などが書かれている。
靖(じょう)の友人であったそうだ。

靖の妻は勝浦の出身で、実家は「瀬藤」と言う、仲通り、
港と丘陵の間の細い道沿の蔵があった家だそうだ。
卓也の母方のゆかりの人には、大逆事件に関連した人の身内、
玉置、さらに私の尊敬する山本 七平がいるということで
それらの記述に期待したい。(この項以上)