
父豊の母方の従兄、大前 靖(じょう)の長男だ。
昭和12年1937、南紀下里の生まれ、サッカー少年であり、慶應義塾大学「ソッカー部」で活躍した。慶應義塾日吉高校ソッカー部の監督をしていた。
私が知る、三浦 (浩)や平野は彼が指導した。
商社兼松を経て、プリント系の会社を経営していた。
大田区在住で現在、大田区サッカー協会会長、サッカーは現役で子供の指導に当たっている。


彼の父、大前 靖(じょう)は昭和初期、新宮中学、慶應義塾体育会ソッカー部で活躍した。
彼の父がサッカーを始めた経緯は良く分からないが、明治期、その由来があったのではないか。
サッカーは明治初頭に横浜に伝わった。

中村 覚之助、明治11年1979勝浦浜之宮生、が洋書を翻訳し、
蹴球としてその競技を詳しく日本に紹介した。明治35年2003、のことだった。彼は東京師範高等学校(筑波大)卒、日本サッカーの父を言われている。日本サッカー連盟は彼の功績から熊野の八咫烏を
シンボルとしている。そんなことで靖(じょう)の出身地と近いと
言うことがあった。

現在、サッカーは日本のメインスポーツとなっているが、戦前アマチュア界のスポーツとしては盛んであり、1936年のベルリン五輪では
日本はスエーデンを破った。
プロスポーツとしてはFIFAワールドカップに出場とかJリーグの
開設は1990年代で新しいことだ。
私自身も仕事でサッカーマーケティングを1980年代後半していた。
クライアント用にプロモーションビデオを制作し岡野 俊一郎さんに解説を入れてもらった。FIFA、UEFA関連のイベントは、
スポンサー金額が桁違いなので、契約や運営にとても気を使ったが、
とても大きなプロジェクトが多く、世界各地に出かけた経験がある。
FIFAの本部、フィファハウスにも何回か行った。
ベルギーのヘーゼル競技場の悲劇の時も現場にいた。
1988年、中国で開催されたU-16(現在の21)の冠スポンサーを
私が決めたので、FIFA VIP CLUBの記章を貰ったことがあった。
偶然だが、卓也の弟和也が南米向けのカレンダー制作にも関わった。
卓也の先祖感
彼が感じていた、祖父やその兄弟の一般の人々へのしゃべり方だそうだ。
彼が見て聞いていたところでは、彼らの村人への言葉遣いには
厳しいものがあったとのことだ。
昭和初期までの地域社会、特に熊野色川みたいなところでは、地主かつ指導者は人々に対して「うむ」を言わさぬ口調であった。
地域に暮らしていた人々以外にも季節労働者のような人々が外部から来るので、厳しい言葉、態度は必要であったのだろう。
それらの厳しい姿勢は恐らく、江戸期の庄屋クラスの地域指導者には必要な資質であったのだろう。そしてその庄屋クラスが血縁を持続すればその子孫にも少しはそのような性格が残るのであろう。
卓也は須川 とめ の葬式の挨拶に行った際に、とめの娘の一人からとても厳しいことを言われ今でも記憶にあると言っていた。
とめが亡くなったのは昭和24年1949、だから卓也も10代前半、中学生くらいだったのではないか。私の母も何かを折に叔母の一人が
厳しい言葉を受けたと言っていた。
今やハラスメントになるような言葉の昔の自営業では一般的なものであったのだろう。
(この項以上)