須川 忠兵衛は寛永2年1625には請川、川湯のあたりにいた実力者だ。須川 長兵衛家と同じ家紋をもち、同じ時期に活動し始めた証明がある。
長い間、須川家はお互いに他の須川家の存在には無関心であったようだった。
南方 熊楠先生が大正年間、自分の熊野を研究活動で歩いていた経験、大和 杉田 定一氏の協力で得た大和須川城須川 藤八の討ち死に後の須川 長兵衛家の系譜などから口述した記録がある。その記録は、須川 長兵衛は柳生家に入り柳生 内蔵助となった。
また他の一族は熊野に落ち延びたという内容だった。
熊楠先生は田辺の須川 寛得と付き合いがあり、須川一族に関心があり、彼の姉も
須川一族に嫁いでいたために熱心に調べてくれたようだ。
熊楠先生の調査方法は、とても先進的で、今ではパソコンでやるような手法を床に広げた
資料を読み解き、情報を結びつけ、仮説を出し、結論を導く、と言う科学的方式で、とても信頼できる。先生の口述や記述をもとに、熊野北部にいた須川一族の江戸期の姿、謎に
せまるべく客観的にまとめたのが以下の文である。